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■鉄槌を打たれる前に、早急な対策を!。■

解決の為の、提案書。 15 o 。

提案書、 1、 2、 3、 4、 5、 6、 7、 8、 9、 10、 11、 12、 13、 14、 15、 16、

イメージづくりのお手伝い。
DESIGN B2。■看板博士 。文 宣。

E-Mail : marnonb2☆icloud.com

代 表。 今#川正信。

offer 15 o 。

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西田憲一氏。立花氏へ。
Alvis.、船越.氏へ。
一条工務店の 田中康貴 氏へ、
お隣の米川邸 様へ。

特別解説。 提案書。 15 o。

ステンレス看板の提案書。

上に蒙古襲来の解説。下に地図。(京都・鎌倉)
 高麗の合浦
。(がっぽ) 壱岐・対馬・博多を入れる。

No,1

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忠霊塔に立っている
ステンレス看板
。

忠霊塔のステンレス看板

反射して文字が読みづらい

黒地に白の抜き文字に

統一感を出したほうがいいので、同じ仕様でそろえる。

ステンレス看板の提案書

イメージ合成

TIFFファイル mojiban.tif

 この石碑は、蒙古襲来時に戦って果てた武将の古い墓です。鎌倉時代中期の1274年から、1282年に、モンゴル帝国、及び属国の高麗によって、二度にわたり行われた対日本進攻は、「蒙古襲来」とも呼ばれる。一度目を文永の疫。、二度目を弘安の疫。、日本へ派遣された軍隊は、当時世界最大の艦隊で、文永11年10月3日に、高麗の合浦(がっぽ)をたった、元と、高麗は、10月5日に「つしま」を襲い、19日に「博多湾」に集結しました。「壱岐、つしま」の人たちは、悉く殺されました。その残虐さを聞いて西に向かう途中で、敵陣に倒れた、鎌倉武士の亡骸を埋葬した墓は、当時の古い石塚のままです。かなり勇猛果敢な武将だったようです。愛する家族、を残して、二度と、ふるさとの土を踏む事無く果てた命。 私たちは、はるか昔に、国を守る為に、西の果てまで駆けつけて、犠牲となられた「防人の英霊」の勇気に、感謝を持って、心に強く刻み、「平和」の大切さを、深く考えなければなりません。

糸 島 市。

文字修正。
文永・弘安の疫は
、誤字。文永・弘安の役が、正解。

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今年 最後の提案 をします。

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 前略、 「古い石塚」に対する 祀り方を詳しく示している処ですが、(「おさだ邸への方針」が 変わって来てるな…。)と感じていると思います。申し訳ありません。

 今年は、悲喜こもごも 重なる 激動の一年で 奇跡的とも言える、世直しのタカの出現で、鬼退治の兆しを示され 英霊の働きを見る、不思議な一年でした。

 ここは、奪われた境界を ただ、取り戻すだけでは、期待される「解決策」にはならない事が分かってきました。

 「急がば回れ。」という古いことわざが有りますが、まさにその格言で、正面からぶつかる「正攻法」だけでは動かないこともあります。

 恨みが残らない方法で、 円満に解決する事が求められており、手がけていた手を止めて 先に優先して早く方向を示しておく必要も出て来て、やるべき課題が増えて、物事が 複雑になる傾向も 多少有ります。

 色々と考えを巡らしていると、また気になる事が出て来ました。(ひょっとして 「おさだ邸」の祖先の人が してくれた 昔の親切な行為を 無駄に潰してしまった可能性が出て来ました。)しばし母が聞いたという 意外な昔の逸話をお聞きください。


 今年は
、なにかと 想定外の優先順位を選ばされる用事が増えて 小屋の片付けが出来ないままに 令和七年が終わりそうです。失明による、休戦の宣言は 誠に申し訳ございません。

 我が家は、昔から、母の口グセで 事故以来 「やぶれ正月」を送ってきましたが、今は日本全体が「やぶれ正月」状態になってしまった感があります。今は 停滞していても…。

 来年に期待して 希望を託したい…と存じます。天高く飛躍して 難題をのり超えてゆく 素晴らしい 良いお年をお迎え下さい。お祈り致します。

iPhoneから送信
。



順不同。(送信済み。)
(2025年、12月27日。)


 重要な事を忘れていた事に気が付きました。急に、昔の記憶が甦ってきたので、忘れないうちに、母から聞いた話を書いておきます。

 まず、昔撮った写真を見て気が付いた事があります。

区道の上に「側溝」がある。 



 
「おさだ邸」の前の区道に沿って、「側溝」があることに気が付かれると思います。 それで、はるか、昔、子供の頃に母から聞いた、その「側溝」に関する、ある話を思い出しました。

 それは
、当時、「おさだ邸」と「重田邸」との話し合いで「側溝」を掘った。という話です。昔、「重田邸」が、忠霊塔の上から流れてくる雨水が裏庭に溢れて、水が溜まっていた。

 
当時、いつも水はけが悪くて鶏小屋の周りがジメジメして、足がうぼって困っていた。という。その話を聞いた、「おさだ邸の人」が、「それはお困りでしょう。じゃあ、うちの前の区道に沿って「側溝」を作って、川に流れるように協力しましょう。」という事になった。

 それで
「重田邸」の裏庭から、側溝を作って境界を越えて、「おさだ邸」の前の「区道」に沿って「側溝」を掘る工事をして、出来た溝に伝って、雨水がすぐに川のほうに流れるようにしてくれて、たいそう、助かって喜ばれた。という話であった。

 「へえー、あの、「おさだ邸」が、そんな近所の為に奇特な良い事をされたの?珍しいね。」と、近所の、みんなが驚いた。という話であった。

 この話が本当ならば
「おさだ邸」の先代のまさおみ氏がまいた、除草剤の毒水は、既に、「側溝」を伝って川に流れて、かなり薄くなっている可能性が出てきました。

 今となっては
「側溝」の役割を果たし続けてくれているのか、、確かめようが無い状態です。

 
「立花邸」が、屋敷を買う前の事なので、話が古過ぎます。

 しかし
、この部分は意外に大事な「要点」です。「米川邸」の工事を受けた土木の整地作業をした人の意見も聞いて、「何か「側溝」らしき痕跡が有ったよ。」という話が出たり、「その痕跡を、目撃し確認している」という話であれば、「おさだ邸」の、解毒工事の、対処は、今後、どうあるべきか?。が変ってきます。

 
「側溝」の痕跡を確認する話は、本格的に、「忠霊塔」の補強工事と、階段工事を始める前に、ハッキリとさせておくべきです。

 
「側溝」の水はけの働きを、現在もなお、妨げないで活かされているのか?、「おさだ邸」にも、祖先や先代の果たした功罪の相殺か?、再評価するか?の確認をして頂く必要が出てきました。

 
私の記憶では、「忠霊塔」からの雨水は、「重田邸」の裏庭に溜まらずに、「側溝」を伝って川に流れていた筈です。ところがいつからだったのか、床下が湿気を帯びてきて、植木が枯れたり、犠牲者が出たのは事実としても、これは一時的な危険な現象が重なったのか?。 
 
「側溝」が役割を果たしてくれているならば、長い目で見れば、いずれ毒が薄まり、落ち着く話になっていくのかは、私にも、かいもく、見当が付かなくなってしまいました。、

 
「除草剤」をまく前から、すでに何らかの事情で「側溝」が機能しなくなっていたのか?。元々、毒水の溜まった土壌を浄化するだけの役割までは至ってなかったのか、詳しくは調べてみないと事の、真相は判りません。

 祖先が残した功績が先んじて
先代の犯した罪を、贖罪し、相殺する事になるとは、何とも不思議な話です。


 
重機が入った時に確認すべきでしたが、当時 全く、気が付きませんでした。突然、始まった整地の工事が、立花邸の時だったのか、米川邸の段階だったのか?。どの時期だったのか?。写真を見ても、時期が、混同して判らなくなっています。

 
私の視力も急激に落ちており、掘削された後の「側溝」の痕跡を探そうとしても目がかすんで、もはや正確な判断は不可能です。申し訳ありませんが、土手の掘削に深く関わった西田氏に聞いて、「側溝」がどの当たりにあったのか、その形跡についての詳しい経緯を伺って確かめてください。限界です。あとをお願いします。

 
我が家の床下に雨水がしみこんで、さらに低い井戸の中に流れ込んでいる事実が今も続いているならば、どこかで「側溝」の流れが川のほうに流れる仕組みが、切断されてしまい、再びまた、ふさがれてしまった可能性があります。

 せっかくのご先祖様たちが
、残してくれた、素晴らしい共同作業の功績を、台無しにした行為は、結果論ですが、知らずにした事とは言え、実にゆゆしき事です。

 
私も、今頃になってやっと思い出したことなので、誰も気が付いた人はいないようです。これは非常に大事なことなので思い出せただけでも、不幸中の幸いです。

 来年に持ち越された
、残された取り組むべき、解決すべき大きな課題です。
 土手の
掘削工事をした、せこう業者が誰だったのか、不明です。

 防塁の
瓦を片づけた時の責任者だった「西田氏」に「誰か「側溝」のあった場所に心当たりがあるか?。」を、(ご確認頂きたい。)と思います。

 お手数ですが
、先祖の供養にもなる、「歓喜と希望」につながる幸せの原点ですので、よろしくお願い致します。

 

 追伸、 気がついた事を報告致します。「おさだ邸」の前の「区道」に沿って掘ったとされる「側溝」について、一言。

 どうやら、「側溝」は 「区道」の真上に掘って通しているようです。これでは「忠霊塔」に緩やかに登れるように 施工する 階段の下に埋もれてしまう危険性があります。

 「側溝」の存在が、「階段」の補強工事の基礎を作る段階で やりにくくなる可能性が出て来ました。影響が出ないように 階段は少し左にズラして 施工する事になると思います。

 仕方ない事で、この「側溝」は、上に土が無かった時代に、通された物と推察いたします。その後に、削られた崖下に盛り土をして、側溝があった場所が見えなくなってしまったようです。

 この時点で 「側溝」を見失ったまま、セメントで山の麓を固める工事になったのだろうか?と推察いたします。

 今となっては、「重田邸」は、引っ越されたし、「おさだ邸」に その時の 古い契約書が残っているかも知れないのでダメ元で 確認をさせて頂くだけでも 価値はあります。

 まず 現時点で 土を掘り返して「側溝」の場所を突き止めて 元通りに 復活させて 機能させる事が優先すべき事です。


 
 iPhoneから送信。

「側溝」が見える。

車の下に「側溝」フタ。



「側溝」は重田邸に
繋がっている筈。

「側溝」の痕跡が
掘削で不明に。


掘削後の壁に
「側溝」の痕跡は。

どの段階の掘削か
西田氏の管理下。


境界にあった譲り
葉の切り株確認?。

重田邸からの「側溝」
は活きているか?。


重機で土手の掘削工事をした時の様子。
「側溝」の痕跡をご確認下さい。




 


 


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